2025年4月21日月曜日

【日記54 ツール・ド・松山編5】松山駅〜チタン



過去に2回、松山に来た時は、車と飛行機だったので、どちらも松山駅は使わなかった。
今回初めて電車で到着した松山駅は、駅の改修工事の真っ最中だった。線路が高架になった新しい駅舎の横で、これまで使われてきた地上の線路とホームが解体されているところだった。
駅を出るとすぐに懐かしい風景に当たった。そう、路面電車だ。大通りには軌道が敷かれ、車とともに電車がゆっくりと進む。
7年前はこれに乗って道後温泉からお堀のあたりまで移動したっけ。
乗ってみようかと思ったけれど、歩いているうちに松山城のお堀に突き当たり、なんとなくそのままホテルまで歩き通してしまった。途中、大きく道をそれて、気ままなルートを通ってみた。銀天街や大街道、かつて来たことのある場所を今こうしてまた通っているということが不思議に感じられた。
松山に限らず、普段の生活から離れた場所に、二度、三度、と数年単位の時間をおいて足を運ぶ時、またここに来た、という感慨とともにいつも「またここに来られた」という気持ちになる。何か力が働いているように思うのだ。何かがまたここに向かわせた、と。


松山といえば松山城や道後温泉など名所も多いが、どこにも寄らず、16時ごろにホテルにチェックインした。松山に来た目的はただ一つ。父が行きつけにしていた飲み屋へ行くこと。開店は18時。それまでに遅めの昼食(おにぎりと缶ビール)を軽くとり、少し体を休めた。


18時、日が落ち、大街道を夜が包む。
お店は大街道から横道へちょっと入ったところの2階。
懐かしい看板。そうそう、こんな感じだった、という階段。
ドアを開けると、大将と従業員のRさんが迎えてくれた。大将はホテルでのシェフ時代を彷彿とさせるコックコートに身を包み、Rさんは親父がプレゼントしたという手ぬぐいを巻いていた。
2人も一度東京に来てくれたことがあった。その時は実家にも立ち寄ってくれた。親父が駅まで迎えに行ったことや東京観光の案内をしたことをよく覚えてくれていた。


父親としての親父のことは、よく知っている。あまり好きではなかった。お世辞にもいい人とは言えなかったが、一歩外へ出ると、なんとまあ慕ってくれる人の多いことか。世の中の親父ってみんなそういうもの? とにかく親父は家以外では笑顔で、人当たり良く、仲間もたくさんいて、博識で、ユーモアもある、という人物だったそうだ。家の中と真逆。本当に不思議に思う。あなたはいったい、どんな思いでうちに居たんだ。仕事から帰り、ご飯を食べ、テレビを観て、眠り、仕事に出かけ、定年後は日がな一日ビールとピザをテーブルに広げてテレビや映画を眺め、どんな気持ちで家に居たんだ。怒りっぽいあなたのことを、家族以外に知る人はいるのかい。


20時過ぎ、お店の常連で父の友人でもあるT先生が来てくれた。僕が東京から来ると聞き、わざわざ会いに来てくれた。T先生とは13年前に会っただけだ。このお店がまだ名前も違い、大街道近くに移転してくる前のことだった。その時は、さんざん飲んで、僕は酩酊して、翌日に行った高知のひろめ市場では水しか飲めないほどの二日酔いだった。


T先生は僕が誕生日だと知ると、お店にあったギターを取り、即興で歌ってくれた。
親父は50代で大腿骨骨頭壊死により人工股関節の手術を受けている。材質はチタン。自分の体の中にチタンが入っていることを、なぜかえらく気に入り、それを記念してか、手術した時の自分の歳とtitanの文字をメールアドレスに入れていた。そのため、T先生は親父のことを「チタン」と呼んでいる。
松山の夜、とある飲み屋で、「チタンの息子が来たぜー!」と高らかに歌われたのだった。


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