11月5日に父が亡くなりました。
動悸がおさまらないから、背中をさすってくれと言われて、さすっていた、その間にいつのまにか息が止まっていました。
この手で触れている間に逝ったので、あまりにもあまりにも大量のものを受け取ってしまったように思います。ようやく20日以上が過ぎましたが、僕の中に流れ込んできた大量のものたちが、ゆっくりと、自分の中に残るものと出ていくものとに分かれ、そのようになっていくのに任せる、そうするしかない日々でした。
父との記憶には、そして最後の1日には、もうすでに霧がかかってしまったように思います。
今、僕は、その霧を晴らそうと文章を書くことに、悲しみを感じます。話すことで均してしまうのではないかという恐ろしさがあります。
できることは、霧がかかったまま、詳細を省いたまま、事細かな記録などしないままでいることだけのように思います。父が亡くなった、と思うことだけのような気がしています。
父は、僕が自転車に興味を持つきっかけをくれました。亡くなったあと、父の自転車を見たら、レンチがボルトに差し込まれたままになっていて、あぁ、まだ乗ろうとしていたんだなって思いました。