2025年1月18日土曜日

【月詠】「塔」2025年1月号

「塔」の1月号が届きました。表紙は春が萌したように桃色と新芽のような緑で彩られています。
今号では梶原さい子さんの選歌欄に掲載いただいております。

電車から月曜の道眺めてる二日前まで徳島にいた

床に地図広げるように本を読むまるもしかくも大人も子どもも

遠い地の自転車屋にもいるだろう同じ試験を受けた整備士

言葉たち二人をただ対岸にして行き交うばかり橋も架けない

風の中望遠鏡は待っていた百円で目を覚ます百秒

プルタブは開ける音こそ最大の発明だねと秋の入り口

「クリスマスかあ」ハモればやっと十月の会議室B背もたれゆるむ

東京に叩き込まれてきた空の切り取り方を手放してゆく

「塔」2025.1月号

今号では9月に行われた70周年記念全国大会の報告記事が載っています。町田康さんの講演が文字起こしされていて、読むのが楽しみです。のろのろと列島を蹂躙しながら進んだ台風10号のせいで参加できなかったので、こうして読めるのはとてもありがたい。
今年の全国大会は5月に横浜。今からとても楽しみです。

【日記41】ポッキー・プリッツ〜「ことばのバトン」出演



11月11日、ポッキー・プリッツの日ということで会社で15時ごろにポッキーとプリッツをたくさん買ってきてみんなで食べた。忌引き明けの久しぶりの出勤だったが、それほどみんなに気を使わせることなく済んだ。
帰りはスーパーでネギを買って帰る。買い物袋を忘れたのでそのまま手で持って帰る。
買い物袋は、YAMAHAの電動自転車のモデル名のロゴが一面にあしらわれたもの。試乗会イベントでいただいたものを3年くらい愛用している。


11月12日、会社が引っ越してしまったので、朝、歩くルートを検討中。電車が他の路線と接続して一気に混み始める手前で降りられればいいのだが、そこから歩くとなると1時間を超えてしまう。そうなると朝の5時起きでも間に合わない可能性。
通勤ルートの選定に悩む。でもそれもまた楽しい。いい道が見つけられたらいい。


11月13日、母の誕生日。


11月14日、妻から、ぜひ聴いてほしいと言われ、別所哲也さんがナビゲーターを務めるJ-WAVEの番組「TOKYO MORNING RADIO」を一緒に聴く。「MORNING INSIGHT」のコーナーのゲストは料理愛好家の平野レミさん。いやー、面白かった! もう明るくて元気で喋りが止まらなくて流石の別所さんも圧され気味だった。僕は大根に手羽先を竹串でぶっさしている料理が大好きなんだけど、他にも「食べた時にコロッケの味になればいい」とひらめいて考案した「ごっくんコロッケ」(コロッケの形にはなってないんだけど、コロッケの材料が盛られていて、一緒に食べると口の中でコロッケと同じ味になるという最高の料理)の話題もあって、聴いている間笑いが止まらなかった。亡くなった旦那さんの和田誠さんの話もされていだ。でも、さすが平野レミさん、「和田さんもね、天国、天国」と天国にいるんだよということを明るく話されていた。


11月15日、雨がしと降るなか出勤。5駅くらい手前で降りて歩いてみる。途中、六義園の横を通る。公園を囲む赤茶色のレンガの塀が雨に濡れて色が濃くなっている。ほんのりと、紅葉。


11月16日、家の近所を少し散歩。なんとなく転職を考え始め、他の自転車屋さんを見に行った。よく歩いたので、途中でガストで休憩。ビールと山盛りポテト。その勢いのまま地元に戻ってまたビール、2軒はしごして、帰ったのは23時過ぎ。そこからラグビー日本代表VSウルグアイ代表の試合を観戦。試合会場はフランス。現地時間の14:30キックオフだったので、後半に入ると西日が強く、画面が金色に輝いていた。


11月17日、東京歌会。
帰ると、吉川宏志さんの『叡電のほとり』が届いていたのでさっそく開く。2023年の一年間、ふらんす堂ホームページの「短歌日記」に連載していたものをまとめた第十歌集。買うのがちょっと遅れてしまったが。
田村穂隆さんの『湖とファルセット』の批評会が行われた10月14日から一首引く。

湯を細め珈琲淹るる ふいに来て前からずっといたような秋
/吉川宏志『叡電のほとり』
※「淹」に「い」のふりがな

また、その批評会後に出雲大社まで足を伸ばした時のこちらの歌も好き。

雨落とす雲あり落とさざる雲も秋のみずうみの上を過ぎゆく
/同

歌に添えられた短文には、一畑電車に乗ったということも記されており、自分もその前日に同じように松江から出雲へ向かったことや、批評会後の懇親会でお話をさせていただいたことが昨日のように思い出されて、とても嬉しくなった。


11月18日、12月の文学フリマ東京で配るフリーペーパーを作ることにする。Xで質問を募集して、それに答える。短歌の一切載っていないフリペだ。


11月19日、「NHK短歌」12月号が届く。枡野浩一さん【「おつかれさま」は大人の言葉?】にて、私家版歌集『自転車修理屋』から一首引いていただいていた。私家版の歌集から選んでいただけたなんてと感激した。しかも、一体どこで手に入れてくださったのだろう。知らないうちにBOOTHで発送していたら面白いな、と思った。もちろん全て匿名配送なので、どなたが注文してくださったかは全くわからない。


11月22日、会社の通勤ルート模索中。今日は田端駅で降りてみる。駅の改札を出た瞬間、東北新幹線の高架がまっすぐに朝焼けの中に延びていた。駅へ向かう人たち、バス停で待つ人たちに怪訝な顔をされながら写真を撮る。


11月23日、大学の先輩と秩父宮へラグビーを観に。大学対抗戦、早稲田VS慶應、伝統の早慶/慶早戦。先輩は文芸学科とラグビー部でお世話になった人で、卒業後もこうしてラグビーに誘ってくれて、文学や小説、ラグビーの話をしながら、眩しい午後のスタンドでいろんな話をした。
ラグビーを観た後は、懐かしき江古田の街へ。僕が入学するよりもずっと前から、そして今でも変わらずにあらラーメン屋さんで最後を〆る。醤油ラーメンとごま油の香りがする炒飯。また会いましょう、先輩。


11月24日、NHK短歌の番組内コーナー「ことばのバトン」に出演。気仙沼高校文芸部の皆さんからバトンを受け、無事につなげることができました。ありがとうございました。テレビ番組欄でスチャダラパーのBOSEさんと並んで杜崎の名前を載せていただいたことが一緒の宝物。
昼からは翌日歌会。


2025年1月13日月曜日

【日記40】棚卸し〜応募、完走




11月1日、棚卸しのために戸塚の方にあるお店へ出勤。朝はいつも通り5時に起きつつも、家を出るのは遅め。通勤ラッシュの引いた電車で座りながら向かう。スマホのKindleで歌集を読んでいて、ふと顔を上げたら斜向かいの席に同僚が。同じお店に向かう予定になっていたが、あちらもスマホを眺めていたので特に話しかけなかった。

仕事は順調に終わり、17時過ぎにはお店を出る。
以前から約束していた通り、戸塚から移動して、空いていた焼き鳥屋に一緒に仕事をした3人でパッと駆け込む。お店から串がなくなるんじゃないかというくらいたくさん焼き鳥を食べて、氷なくなるんじゃないかってくらいお酒も飲んだ。


11月2日、毎年恒例、友人家族の結婚記念日写真撮影を明日に控え、機材の準備。と言っても、僕の大好きなCanon Kiss X3と予備にOLYMPUSのコンデジだけ。Kiss Xとは、たぶんもうかれこれ13年くらい使っているかな。5Dとか欲しかったけど、高いから買えないでいたら、結局このカメラに愛着が湧いて、メインはずっとこれひとつ。一緒に長崎の軍艦島とか、いろんなところに行きました。外装がちょっとボロくなってきたり、ファインダーのアイカップがどっかいったりしてるけど、まだまだ使える。


11月3日、撮影当日。初めて撮影をした年は夫婦2人だけだったのが、今では子どもが2人。わんぱくすぎて手に負えない次男をちゃんとフォローする長男。撮影も楽しくできてよかった。
撮影のあとは、恒例のランチ。ランチ中の子どもたちの写真を撮るのも僕の役目。いつもの撮影場所の近所に新しくできたイタリアンのお店に入り、パスタやらピザやらビールやらで小さなパーティーを。


11月4日、実家へ。父はこのところほとんど食事を取れていないらしい。ゼリー飲料や果物だけ。梨は食べられるそうだ。僕が行くと父は寝ていた。起こすのも悪いから、自然に起きてきたらでいいやと思って、自分が使っていた部屋に残してきた本たちを眺めて時間を潰した。山崎貴監督が自分で書いた『ジュブナイル』のノベライズや山際淳司のスポーツノンフィクションを手に取り、ぱらぱらとめくった。どれか持って帰ろうと思い、悩んだ末、よしもとばなな『デッドエンドの思い出』にする。
2時間ほどいたが、父は起きてこなかったので帰ることにする。すると、母に猛然と止められた。顔を見てやってよと言われたが、なんだかそれは病人扱いするようで気が引けた。父は病人扱いされたくないだろう。そう思ったが、母が父を起こすと、父は居間へ出てきた。大きな椅子の背もたれを倒してタオルを体にかけ、眠りたそうだったが、僕を見て言った。
「今日はなんだ?」
わざわざ家にまで来て、僕が、例えば緩和ケア病棟のこととか、病気のこととかを話すのかと思ったのだろうか。最近食事も取れていなくて、弱ってきていると聞いて顔を見に来たなんて言えないから僕はこう言った。
「たまたま近くに来たから寄っただけだよ」
そんな答えで良かったのかわからないけれど、父は、そうか、と言って目を閉じた。
また来るよ、と言って僕は早々に帰った。
あんまり父のそういう姿を見たくなかったのかもしれない。

帰ったあと、妻と少し近所の公園を散歩した。バッタを見つけて写真を撮り、池で甲羅干しする亀を眺めた。


11月5日、朝7時半頃、会社の近くのスーパーで昼食を買ってお店を出ようとした時、母から電話。父が床に倒れてしまって起こせない、と。会社へ向かいかけていたところを急いで引き返す。スーパーのお弁当を持って、ラッシュのど真ん中の電車に乗る。
家に着くと、父は床に座り込んでいた。朝、床に倒れた状態で見つけたらしい。昨晩倒れて、寒い中、ずっと耐えていたらしい。意識はあり、話すこともできた。バスタオルをかけて背中をさすっているうちに訪問看護師さんが到着。僕と看護師さんの二人では力の抜けてしまった父を動かせず、リハビリを担当してくれていた療法士さんも呼んで、3人でなんとかベッドへ運ぶ。たった数メートル運んだだけで大汗をかいた。

これはもういよいよケア病棟、そして介護士さん、いろんなことが必要になる。日常のことはほとんど自力でできていたこれまでとは全く違う生活が始まる。
どうしていこうか。
どうしたらいいんだろうか。
何もわからない。
でも、どうにかしていかなければ。ケア病棟に入って、なんとか苦しみを和らげながら、
と、思っていた矢先だった。
背中をさすってやっていたら、父の息は止まっていた。


11月6日、ドライアイスを替えにきてくれた葬儀屋さんと葬儀の打ち合わせ。なんかもう全然ゆっくりしてられない。明日には葬儀場に運ばれてしまう。なかなか父と二人になれなかったが、夕方ごろに他の家族が出て行って、父のそばでまたひとしきり泣くことができた。


11月7日、葬儀場での打ち合わせ。最終的な人数やお花の数、当日のスケジュール。こちらが何も考えなくて済むくらい、何から何までサポートしていただいた。


11月8日、葬儀。さまざまな負担を考え、一日で通夜、告別式、初七日法要まで。
お骨の中に、父が57歳の時に大腿骨骨頭壊死の治療のために入れたチタンの人工股関節があった。父は自分の体にチタンが入っていることを気に入って、titanという文字をメールアドレスにしていた。


11月9日、短歌の人たちと品川駅に集合して、旧東海道をしながわ水族館まで散歩。辛くて、悲しい1週間だったので、好きな人たちに会いたくて、葬儀の翌日だったけど参加した。昨日までずっとめそめそしていたので、本当に助けられた。その日の歩数は21,682歩。
この日のことはのちに「ねむらない樹 Vol.12」の「歌人の1週間」コーナーにて、小俵鱚太さんが書いてくれました。

集合前、品川駅の改札の中で、鉄道グッズのポップアップショップがあったので覗いてみた。JRの駅名看板のキーホルダーがあったので、探してみたら、あった。真鶴駅!
中学2年生の時、父の所属する自転車クラブに混じって自転車で真鶴まで行ったのでした。なんとなくその真鶴駅のキーホルダーを持っていたい気がして、買いました。


11月10日、塔新人賞の応募原稿を発送。短歌研究賞、笹井宏之賞、角川短歌賞、歌壇賞、塔新人賞、今年の短歌賞への応募、完走。


2025年1月8日水曜日

【日記39】会社の引越し〜『ベル・ジャー』



10月28日、会社の引越しを明日に控え、全員おおわらわ! 通常の業務もこなしつつ、電話も出つつ、メールも返しつつ、店舗からの問い合わせや依頼に応えつつ、デスク周りのものはもちろん、共有の備品の梱包も進めていく。
夜までかかりそうだったが、実は17時には出なければいけない理由があった。とある番組のために、撮影のスタッフさんたちと待ち合わせをしていたのだった。
とにかくダンボールにぼかすか放り込み、なんとか17時ちょっと過ぎに退社。会社の近くまで来てくれていたスタッフさんたちと合流し、撮影へ!

街中での撮影はクローズアップ現代とNHKスペシャルの時に経験したけれど、やっぱり緊張。気温はそれほど高くなかったのに、変な汗をかいてシャツに脇汗が……。
「カメラさん、脇汗が映ったら、容赦なく指摘してください」と僕が言うと、カメラを担当してくれていた方は笑っていた。ちなみに若干、頭頂部も年齢のせいか薄くなり始めてるのでは、と気になり、撮影中は絶対にうつむかず上を向いておりました。なのできっとオンエアでは、脇を締めて上を向いた妙な自分が映っているだろうなと思う。
撮影のおかげですっかり帰るのが遅くなってしまったが、楽しかったので良し。

10月29日、現オフィス最後の出勤日。いつも通り朝早くに出て、途中の駅から歩いて行った。1月くらいから歩いて帰るようになり、そのうち朝も途中の駅から歩くようになった。思えば、今年の角川短歌賞も笹井宏之賞も歌壇賞も全部歩きながら作ったのだった。たくさんの歌を作らせてくれて感謝している。ありがとう。
そして11月15日、あと約2週間で塔新人賞の応募〆切。慣れた通勤路から離れて、一体ちゃんと作れるのだろうか!?

10月31日、シルヴィア・プラス『ベル・ジャー』を読み終える。本屋で見かけてずっと気になっていた。



2025年1月3日金曜日

【日記38】かれこれ14年〜1年分をやりきった



10月21日、仕事の帰りに友達と待ち合わせて飲みに行く。もうかれこれ14年の仲。彼が結婚してからは、毎年結婚記念日に家族写真を撮っている。今日は当日に向けての「よろしく」と最近大阪に行ってネットラジオの王に会ってきた時の話。やりたいこと、実現したいことに向けて、手掛かりのような、まず第一の目標を得たようで、言葉が弾んでいた。

10月22日、担々麺屋Sへ。いつも正油ラーメンしか頼まないけど、たまには坦々麺でもと思って頼んだら、あぁ、やっぱり美味しかった。帰りにジャイアントコーンのチョコを買って食べながら帰った。

10月23日、会社まで、いつもとは違う道で行ってみる。普段なら左へ曲がるところをまっすぐに。月末に会社の引っ越しが迫っている中、それでも新しい良い道を見つけて嬉しく思った。

10月24日、金原ひとみのインタビューを読む。そういえば、作品はデビュー作の『蛇にピアス』しか読んでいなかった。芥川賞を取った時、多分2004年くらいだったけれど、高校生だった僕も本を買って読んだ。「スプリットタンって知ってる?」という台詞がいまだに印象に残っている。

10月25日、角川「短歌」発売日。応募していた角川短歌賞の発表号。受賞者はすでに発表されていたので、選考に残っているかどうかを期待して開いたが、自分の名前はなかった。
ただ、何人か歌友の名前があり、それが救いのように嬉しかった。自分もまだ頑張らないと、続けていかないと、と奮い立たせてもらった。

受賞作である平井俊「光を仕舞う」は、歌人が誕生する瞬間に立ち会うような、そんな作品だった。絵筆を擱き、ペンに持ち替えて、生きていく場所、進むべき道を自らで選び取るその瞬間。また様々な人と読んで深めていきたい作品と思った。

仕事へ行く道は、また違うルートを。
ぬるい雨降りの朝だった。

悔しくて夕方からメガハイボール飲んだ。
「ちくしょ、受賞作も次席も候補作もいいなぁ、」と、いつもの担々麺屋Sで。

10月27日、翌日歌会。これまでで最も参加人数が多かった。準備と司会進行は大変だったけど充実していた。これで12回目。2023年12月に初めて開催してから、月に1回、1年分をやりきることができた。参加してくださった一人ひとりに心から感謝を。
まだまだこれからも続けていく。


2025年1月2日木曜日

【日記37】聞いてみよう〜止まってしまう



10月11日、夜、「泊まれる本屋 まるとしかく」主催のトークイベント「鳥羽さんに聞いてみよう」をオンラインで視聴。現地が盛り上がっていて、画面越しにこちらの気持ちも高ぶった。

10月14日、昼ごろから横浜へ。関内駅で降りて、横浜スタジアムの前を通って横浜市開港記念会館へ。みなと大通りと本町通りの交わる交差点に沿ってくの字に建物の正面を向け、中心には時計塔がそびえる。建築様式は、赤煉瓦に花崗岩を取り混ぜはいわゆる「辰野式フリークラシック」。東京駅の丸の内口駅舎と同じ。
大正6年竣工、翌7年に開館し、同12年に関東大震災によって時計塔や外壁などを残して内部は焼失。その時にドームも失い、昭和2年竣工の復旧工事でもドームは復元されなかった。昭和20〜33年まで米軍に接収され、昭和60年、創建時の設計図が発見され、ドーム復元が果たされるとともに創建時のままの姿が蘇った。とのこと。
建物内部も明治末期から大正の美しい建築様式が再現されていて、おそらく非日常的な空間の演出にもってこいなのだろう、幾人ものコスプレイヤーさんたちの撮影で賑わっていた。危うくなにか剣(ソード)みたいなものを踏みそうになったけど。

そんな歴史ある名建築の中で、小俵鱚太さんの第一歌集『レテ/移動祝祭日』の読書会は行われた。奇しくも今日は体育の日で移動祝祭日。この歌集を読むにはうってつけの日だった。
読書会のあとは歌会。歌会のあとは近くのお店へ流れ込んで乾杯。二次会まで楽しんで、歌集にはサインもいただいた。

10月18日、仕事に行き詰まって頭をガシガシやったら、小さな花の萼が落ちてきた。木々のある道を通って通勤するようにしてるからだろうか。仕事帰りには初めて「銀狐」へ。台東区下谷。寺山修司のアクキーに見つめられながらビール。


10月20日、祖父の二十七回忌。これを節目に、長らく続けてきた祖祖母や祖母、親類の法事をお終いにしましょうということで、親族で集まった。親父も来た。本当は家に残っていてもらうつもりだったらしいが、前日になって行くと言いだしたらしい。とにかくタクシータクシータクシー!お墓参りをして、食事をして、解散した。
親族が集まると、僕はとても疲れる。礼服も来なくていいようなラフな会ではあったけれど。食事した店から出る時に父が自分で靴を履けなくて、かかとに靴べらと指を突っ込んで足をねじ込んでやったのがとどめとなって、ぐったりとしてしまった。どんどん弱っていくこの父を、見えないところでゆっくりと進行している病を、短くなっている寿命を思う。「年内かもしれません」という主治医の言葉を思う。
帰りはだいぶ手前の駅で途中下車して、歩いて帰った。
その疲れを引きずって、徳島日記が止まってしまうことになるのだった。


2025年1月1日水曜日

【日記36】アンリエット〜冬の味



10月1日、髙塚謙太郎さんと峯澤典子さんによる二人誌「アンリエット」1号、「湖底に映されるシネマのように」が届いていて嬉しい。7月に豪徳寺の七月堂で開催されていた「夏の詩」の展示に行った時、初めて峰澤さんの『水版画』の実物を見た。手で触れて、すべてのページを目に焼き付けた。それからずっと楽しみにしていた「アンリエット」だ。

10月3日、毎年恒例、妻と二人で勝浦へ。今年で3年目。東京駅から特急わかしおに乗り込み、缶のお酒を飲みつつ、小俵鱚太さん『レテ/移動祝祭日』のページを気ままにめくりながら。今回は勝浦駅の一つ先、鵜原まで足を伸ばす。
無人の鵜原駅からトンネルをいくつかくぐり抜けて、海の博物館まで。勝浦や房総の海の生物や地形、文化の展示を見て回る。曇り空の下、少し荒れた海を眺めながら、枇杷の缶ジュースを飲んだりして、バスで勝浦駅まで戻る。
夜は勝浦に来たら必ず行く居酒屋へ。女将さんと1年ぶりの再会。

10月4日、昨日とは打って変わって快晴。

10月5日、朝食前に海へ。昼間はまだ暑いけれど、朝は肌寒い。記録が残る1906年以来、一度も35℃を超える猛暑日がないという。今日は曇り。朝食を終えて、温かいコーヒーを飲んだあと、チェックアウト。朝市の終わったあとの道を通り、少し散歩をして、昼頃に特急わかしおで東京へ。

10月6日、旅行の翌日なので本当は嫌だったけど、父を連れて、父の所属する自転車クラブの周年記念パーティーへ。父は退院以来、この会に参加することを目標にしていた。一人での移動はできないので、僕がついていくことに。会場であるホテルの前に着くと、事前に電話で約束していたように、ドアマンが車椅子を持ってきてくれた。父を乗せ、タイヤが沈んでなかなか進みにくい絨毯の床を押して会場へ。
僕はそのクラブとは関わりがなかったが、父は「息子、自転車屋やってるんですよ」と僕を会員の皆さんに紹介してくれた。食事制限はありつつも、父は瓶ビールを飲み、ビュッフェの料理を少量持ってきてつまんでいた。
連れてきてやってよかった。病気なんだから大人しくしておけと思ってはいたけれど、無理をしてでも来てよかった。

10月10日、金麦に「冬の味」という新しいシリーズが出ていた。早くないか?