2024年3月2日土曜日

【日記2】句会の選評〜詩が生まれてくることの喩

2.25 SUN(5℃/3℃) 雨の日の寒さ


午前中は所属している「薪の会」という句会の選評をする。
超結社の俳人の会だけれど、自分は今回は短歌で参加させてもらった。
月ごとの定例の句会(ネット上でやる)にはなかなか参加できないのだけれど、今回はネプリになるということで頑張って参加。
出来上がるのが楽しみ。

本当は、今日は妻の占い師デビュー日だったのだが、体調不良でイベントを無念のお休み。
他の参加者さんたちにメッセージを送り、たまに咳き込みながら、妻はぼんやりとホットカーペットに座っていた。

夏目漱石『草枕』を読むも、なんだか全然進まない。


2.26 MON(13℃/4℃) 『草枕』を読んだ意味


特に何もない日。
『草枕』はいよいよ終盤。
ぜんぜん、主人公が絵を描かないの。ぐだぐだ言って、なんなんだ! という感じ。
まぁ、たぶん注釈とかをすっ飛ばして目だけで読んでいるからそういう風に感じるのかもしれないけれど。
ただ、主人公の画工、観海寺の和尚、那美の従弟の久一とのシーンの台詞のやり取りに、この小説を読んでいる意味があった気がした。画工がそれまでの話の流れからなんの気なしに〈「支那の方へ御出でですか」〉と聞いたところ、戦争へ招集されたことが明かされるやり取り。そうか、僕はここを読むために、読んだんだなと。


2.27 TUE(11℃/4℃) 選ばなかった人生


『草枕』を通勤の電車の中で読み終える。
〈汽車程個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏みつけようとする〉とは、『草枕』の最後に久一の出征をみんなで見送るシーンでの一文。
僕もできることなら電車を使わずに暮らしたい。
渋谷駅を毎朝使わないと仕事へ行けないので、仕方なく使っていたが、ここ1ヶ月ほどはなんとしてでも渋谷駅を使わないように心がけていた。
朝は一駅手前の恵比寿から歩き、帰りは家までの全行程を歩くようにしている。
電車を使えば1時間だが、歩いても1時間半で、時間は30分しか変わらない。
いかに遠回りの通勤経路かが分かる。
でも、旅に出るときは電車が楽しい。
自分の勝手さも、よく分かる。

ところで、職場で流れているラジオのテーマが「選ばなかった人生を語ろう」というものだった。
選ばなかった人生かぁ。選ばなかったというよりは、選べなかった人生の方が多い気がする。
人生の大半を小説家になろうとして生きてきたから、極論、今の人生は「じゃない方の人生」とも言えてしまうのかもしれない。
それに、小説家を超える人生の目標にも、まだ出会えていない。
でも、それが、今の自分をとても楽にしてくれている。
小説家になることを諦めてからの日々は、こういう風に生きてもいいんだという気づきの日々だった。
短歌を始めてからはまた少し自分にプレッシャーをかけるようになったけれど、短歌を頑張るということが自分の人生に対して少し針を刺し始めたら、『ハチミツとクローバー』の森田さんのセリフを思い出すようにしている。
〈「何かを残さなきゃ生きてるイミがないなんて、そんなバカな話があるもんか。生きてくれればいい。一緒にいられればいい。オレはもう、それだけでいい」〉
生きることと創作活動とを切っても切り離せないように生きるしかない人のための、お守りのような言葉であると思う。


2.28 WED(14℃/4℃) 推敲が大嫌いだった


Xを辞めるので、好きなもののブックマークリストを作ろうと思い立つ。
ココで見られるので、興味のある方はどうぞ。
好きな書店や雑貨屋があり、今後もどんどん増やしていく予定。

帰り道、ふと自分の短歌に対してこんなことを思った。
これまでは実景に近いものをよく詠んでいて、それをうまく表現できればできるほどよかった。
でも、一度作ったそういう歌から、どれくらい離れていけるかに推敲の楽しさがあるな、と。
小説を書いていた時は推敲が大嫌いだった。なんだか、部活の練習のあとのグラウンド整備、通称「グラセン」(高校時代のラグビー部ではそう言っていた)みたいで辛かった。

でも、一番、やらなきゃいけないことだよな、ということも分かっている。
この日記は推敲も何もないし、ましてや読み直しすらしてないけれど。
もちろん、いろんな文章を書く中で、全てを書ききれないことはある。そればかりかもしれない。そういう時は、断片であることを大切にする。たとえそれが書ききれないことの言い訳であっても、かけらでしかないなら、無理に繋ぎ合わせることもない。
むしろ書ききってしまうことで漏れることの方が多い気がしてしまうのも事実。

そんなことを考えていたせいか、ふと今年の歌壇賞を受賞された早月くらさんの受賞第1作が読みたくなって、「歌壇」3月号を取り寄せることに。


2.29 THU(11℃/3℃) 歌壇賞作品「ハーフ・プリズム」を読む


早月くらさんの歌壇賞受賞第1作を読むために、受賞作「ハーフ・プリズム」を読み直す。
職場やいつもの飲み屋へ「歌壇」2月号ごと持って行って、基本的には歩いたりしながら受賞作「ハーフ・プリズム」を読んでいたら、夏の日々を、精緻に描写した一連のように思えてきた。こんな夏だった、という話を聞いているような気分になったのだ。

それで思い出したのが、宮沢賢治の「蠕虫舞手(アンネリダタンツエーリン)」だった。
30歳くらいの時に仲良くなった人が教えてくれた詩で、最初に読んだ印象について、自分の書いた文章が残っていたので載せる。

なんという描写。ずっと何時間も、飽きずに、水の中の蠕虫を眺めている姿が目に浮かびました。読んでいると、自分まで一緒になって水の中を覗き込んでいるようでした。

まぁ、すごく稚拙な感想だけど、かなり素直な感想ではある。
「春と修羅」は教科書に載っていた。詩と習ったはずだけど、宮沢賢治は自分の書いた詩のことを「心象スケッチ」と称し、「到底詩ではありません」なんて言っている。「春と修羅」のことも。
あんまりいい意味で「心象スケッチ」という呼び名を使っていたわけではなさそうなんだけど、スケッチというからには書き取った、という認識なんだろうけど、書き取るのに必要なのは「目」だし、五感の全て、あるいは+1感。
いろんなことを思い出して止まらなくなったついでに書き出しておけば、神林長平も『戦闘妖精・雪風』の冒頭で〈妖精を見るには、妖精の目がいる〉と書いている。
スケッチが、スケッチの域を超えるとき、そこにはきっと妖精の目があるのだろうな。

夜、「歌壇」3月号が届いた。


3.1 FRI(16℃/3℃) どんな風に解凍した?


「歌壇」3月号を持って出かける。
早月くらさんの受賞第1作「距離のない庭」を読みつつ会社へ行く。
帰りも読みつつ、いろんな道をぐにゃぐにゃと通りながら2時間かけて歩いて帰る。
最近のことを話してくれているような印象。
もちろんそれは〈余白をゆるす言葉と定型の力を借りて、読み手のなかで解凍される〉(「受賞のことば」より)印象である。
いろんな人に「どんな風に解凍しましたか? 解凍されましたか?」と聞いてみたい。

裸眼にはビルも桜もただひかり予感のような夜を見ていた
早月くら「距離のない庭」(「歌壇」2024.3)

連作の中の一首。
眼鏡を外した時、一気に視界がぼやけて物の区別がつかなくなる。
裸眼となり、景色に自分自身を通過させる時、〈ビルも桜もただひかり〉になってしまうように物と物の差異が消える。詩が生まれてくることの喩のようにも読んだ。

いつものごとくすごく長くなったので、土曜日の分は次回へまわします。



今週のアルバム


アイスにメーカーズマークをかけると「大人」な気分になる

この道は「大人」な感じするぜ

砂肝のアヒージョ食べちゃうなんて、なんて「大人」なの!自分!


早月くらさん「距離のない庭」すごく良かった


午前中にアイス食べられちゃうのは「大人」だから。
子どもにはできない。

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