なんて孤独にその一点を見つめているのだろう。その一点とは、人の生と死を分つたった一点のことだ。
最初に読んだとき、本作は「あわい」を描いたものだと思った。救急医療に従事する人から見た緊迫した現場の、しかし泥のように重く暗い夜の底で繰り広げられる、生きると死ぬの間にある途方もないグラデーションを見せつけられている気分になった。
脊柱を揺らさぬように運ぶときわたしの腕はすこしだけ水
まっすぐにもしもしかめよの律動で押せば二回で折れる胸骨
劇薬を受け入れるとき人はみな凪いだ港の桟橋にいる
細心の注意を払いながら人の体を運ぶ様子や、骨が折れることなど気にしていられないほど1秒を争う心肺蘇生。劇薬とは、強烈な鎮痛剤のことだろうか。死や苦痛を回避するための処置が、〈幽明のあわい〉を泳いでいく赤色灯、つまり緊急車両が、次々と詠まれていく。
ところが、読めば読むほど、これはあわいではなく、そのあわいに立って、ただ一点を見つめている人の歌なのだと考えるようになった。
まず、朝が来ない。
朝焼けはたおやかに降る生前と死後の境界線の向こうに
作中、朝が来るのは、 一点を越えた人だけである。〈生前と死後の境界線の向こうに〉朝焼けが降るのであって、生きている者からしたら、こちら側には降らないと捉えられている。仕事を終えて朝を迎えたであろう歌にも、素直に朝を感じさせる語は使われていない。
また頭を下げて静かな帰路につく夜のすべてを使い果たして
寒がりの兎みたいにコンビニの一番端で噛んだ肉まん
透明な光の予感残しつつ舌の温度でチョコがほどける
ただ夜という時間を〈使い果たした〉だけ。この人に来るのは、朝ではなく透明な光なのである。透明な光とは何か、はっきりと説明できないけれど、失われていくものに近い気がする。
現世の時間が溶けてゆくほどにわたしの両手はまた透き通る
〈もしもしかめよの律動で〉心配蘇生を施し、〈カラスウリの花弁を想いつつ〉針を射し、劇薬を投与し、手袋を隔てて〈無言の人の夜の部分に〉触れた両手。〈現世の時間が溶け〉る。生きている人間に流れる時間が、その両手をいったいどうしようというのだろう。なんとなく、無垢なものに近づいていくような気がしないでもない。それは救いのような優しい笑みを湛えているかもしれない。けれど、救うということと奪うということと、その差はどれほどのものなのだろう。
ところで本作を職業詠として読むとき、同僚の存在がほとんど描かれていないことが気になった。救急医療に従事しているならば必ずチームで動いているはずではないか。でも登場するのは、心静止と言われて〈すこし黙ってハイと頷く〉研修医と、〈あと五分早く(中略)起きてくれれば〉と悔やむ原因となったドクターくらいだ。しかも言葉と思いがうまくつながらなかった相手として。
人の死に慣れてしまって今はもう愛猫の死がただただこわい
〈人の死に慣れ〉るほど、日々「死」と真っ向から向かい合うことは、たとえチームでの仕事であっても、誰かと分かち合ったり、数人で負担を分け合うことではないのだ。孤独なことなのだ、と頭が下がる思いだった。そしてもう一つ、ちがう孤独もあるように感じられた。
比喩でなく少年は跳ぶ人類の墓石を模した雑居ビルから
体温と同じくらいの温かさ名前も知らない人のスマホの
知らない人を看取ったあとの国道に水仙ばかりひどくまぶしい
自分ではない誰かばかりが一点を越え、この夜の中に自分だけが残されていく。そんな感覚がもたらす孤独。〈愛猫の死がただただこわい〉のも、自分が残ってしまうからだろう。〈感情を燃やさないこと〉で奥底にしまい込んだものが、吹き出してしまうからだ。越えられない一点。越えてはいけない一点。でもそれを越えていってしまう〈知らない人〉たち。その一点の周りを漂うことしか、「残る」者にはできない。ナイトフィッシュ。真っ暗な夜の底に〈棲む〉魚だ。朝は来なくても、今日もせめて、夜よ終われ。
***
本作は、まず第35回歌壇賞候補作として、誌面に掲載された10首を読みました。そのあとにネットプリントで発表された30首の完全稿+あとがき(「あなたへ」)を読みました。
当たり前に「死」が存在する仕事を、感情を抑えた筆致で短歌に刻みつけています。30首すべてを発表してくれたことに感謝します。
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